もうこのままでは生きていけない

37歳。女。主人は20歳年上。東洋の占い勉強中。

コンサートの思い出

クラシック音楽館を聴き終えてゴミ出しに出ると秋の空気。

からっとしたこの空気、何日ぶりかしら。

 

武満徹 弦楽のためのレクイエムは真剣に聴いたのは初めて。

音が空気を振動させてるのが目に見えるよう。

 

それにしてもチラチラ映る客席のゆとりがすごい。

いつもコンサート行くと、あの客席の狭さがどう克服するか考え所なんだよね。

足元ぎゅうぎゅうで、横もぴったりで。

座っている間中他人との距離がずーっと近いから、

舞台上の気配を真剣にかぎとろうとすると、もれなく他人の気配も入ってきてしまう。

もちろん自分もその他人なんですけど。

 

だから演奏中は大きな耳になるつもりでいる。

ただの感受体になるというか。

総合人間力を弱めて自我の気配を消し、聴くだけの存在になろうとするというか。

幸福にも隣など近い席の人が同じスタンスだと、無の存在同士の共同作業感が生まれるよね。

自分たちはどこまでも静かに、内臓の動きを緩め、音楽を妨げない呼吸をする。

無と無が協力して大きな無のドームを作る。

やがて、一緒に海の底から舞台を見上げている感覚がやってくる。

空気の無い静かな場所から、それぞれが触角を伸ばして音楽を吸収しているような。

そんな人とは往々にして拍手のタイミングも気が合いますね。

意外に拍手が情熱的だったりしてね。

あなた・・友達になりましょう!たぶんもう一生会わないけれど、生きている限りあなたは私の心の友だ!

と私の中のジャイアンは炸裂しつつ、無言で帰宅する。

 

そんな美しい体験をまたしたいなあ。

もちろんそうそうは無いけれど。

座ってるだけでうるさい人っているよねえ。

ガサガサゴソゴソもしてないんだけど、気?波長?がうるさいっていうか?

まあ自分も外から見たらそうかもしれないしな。

 

ともあれ広々とした客席への憧れ。

でもね、採算が取れないんだからね。いいことじゃないんだろうけど。

いやあうらやましいなあ。

あの空間でハッピーなモーツァルトや、手応えブリブリのブラームスのセレナード聴くってどんな感覚だろう。